更新日: 2022.10.11 年収
【控えおろう!】水戸黄門は現役時代いくら年収があった?
この記事では史料を基にしてその年収を現代のお金に換算し、推計してみました。
執筆者:FINANCIAL FIELD編集部(ふぁいなんしゃるふぃーるど へんしゅうぶ)
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派手好きだった水戸黄門は現役時代、質素な生活を送り続ける
江戸時代、幕府と最も関係が深い徳川御三家の一つだった水戸藩(現在の茨城県北・中部)で、2代藩主を務めた光圀は、後に「水戸黄門」と呼ばれるようになりました。黄門とは、古代中国の律令制における位の一つで、平安時代以前の日本にあった「中納言」(四等官)の官位に相当します。いずれにしても、水戸黄門が庶民に愛された呼び名、つまり敬称であることには間違いありません。
光圀は幼少期、もともと派手な服装をしていて、自分勝手で粗野な言動によって周囲から嫌がられていたと伝えられています。青年期には女性遊びも盛んだったのですが、正式に藩主に就任した途端、庶民のための政策を次々と打ち出すようになり、「名君」として高く評価されるようになりました。
藩主の就任直後、水戸藩内の地形などの関係で、庶民がきれいな飲料水を確保できなかったことに心を痛めた光圀は、全長約10キロメートルに及ぶ笠原水道を完成させ、多くの人々に感謝されています。
テレビドラマ「水戸黄門」は、江戸時代に人気となった講談「水戸黄門漫遊記」を基に作られています。晩年の光圀も日本史上初の本格的な歴史書である『大日本史』を編さんする取材のために、実際の庶民らの暮らしを見て回ったことはあったでしょうが、全国各地を隅々まで訪問したり、側近の「助さん」「格さん」が悪者を懲らしめたりしたという史実はありません。光圀が人々に尊敬されていたからこそ、ヒーローとして描くために面白く脚色されたフィクションです。
このほか、尊敬する人物の死去を後追いしての殉死の禁止、貧民の救済、藩内産業の振興を推進したほか、巨船「快風丸」によって蝦夷地(北海道)を探検するなどの挑戦的事業にも関わりました。
水戸藩主としての年収は?
光圀が藩主の頃の水戸藩は石高が28万石。五公五民により石高の半分は農民に渡っているとして、さらに藩の臣下に渡す報酬を除き、米1石を15万円と換算すると、年収はおよそ70億円と推定されます。
ただ、光圀が物語になるほど尊敬された最も有力な理由は、藩の財政を立て直すために、自分自身でも質素倹約に努めた「率先垂範」の姿勢でしょう。庶民に倹約を求めるからには、自分自身も倹約に努めるべきだという、ある意味で身を切る姿勢が、人々の心を打ちました。光圀の食事は「一汁三菜」だったと伝えられています。仮に汁物が1杯50円、菜物が1つ100円だと仮定すれば、1食につき350円相当です。江戸時代の人々は1日2食で暮らしていましたので、食費は年間25万5500円という計算になります。
そして、総収入に占める食費の割合であるエンゲル係数は、現代人の平均的水準だと約30%ですが、質素倹約に努めた光圀であれば、その半分に抑えたと仮定できます。エンゲル係数15%と仮定した場合の下で、光圀の年間生活費は約170万3000円と推計できます。
水戸黄門は、意外とつつましい暮らしをしていた
水戸黄門は、庶民を守り悪を許さない正義の味方として、全国各地を漫遊しているイメージがありますので、いかにもぜいたくをしている風にも見られがちです。
しかし、そのイメージは庶民を楽しませるための虚構であり、本当は藩の財政を立て直すために、自ら率先して質素な暮らしに努めていたのです。現代のお金に直せば、生活費は200万円にも満たないでしょう。藩主としての現役期間中、実際には藩の財政をめざましく立て直すことはできなかったようですが、時を超えて現代にまでその名が伝わるほどに、水戸の庶民の多くから支持を集めていたのです。
出典
水戸市ホームページ 徳川光圀
鳥取県公式サイト 徳川光圀の修史事業と民俗/とりネット
大阪産業大学リポジトリ 水戸学と幕末武士層 – 一横井小楠による受容と批判をめぐって
執筆者:FINANCIAL FIELD編集部