「遠山の金さん」の年収って?どんな仕事をしていたの?
配信日: 2022.10.06
そんな遠山の金さんは、いったいいくらの年収をもらっていたのか気になる人は多いのではないでしょうか。そこで今回は、遠山の金さんの仕事内容を紹介しながら、その年収について解説します。
執筆者:FINANCIAL FIELD編集部(ふぁいなんしゃるふぃーるど へんしゅうぶ)
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遠山の金さんとは?
遠山の金さんは、本名を遠山金四郎景元(かげもと)といい、江戸時代の旗本として生を受けた実在の人物です。幼名は通之進といいます。堀田一定の娘である「けい」を妻に迎え、8人の子どもを授かりました。1793(寛政5)年に生まれ、1855(安政2)年に63歳で亡くなっています。
12代将軍徳川家慶に裁きの様子を称賛され、奉行の模範としての「お墨付き」をもらったことや、老中・水野忠邦の「天保の改革」にあらがって庶民の生活を守ったことなどが、大きな功績とされています。
では、遠山の金さんの職歴を大まかに見てみましょう。1840年(天保11年)に北町奉行に就任。最初は老中である水野に協力的でしたが、庶民への極端なぜいたく取り締まりを行った天保の改革に反対して対立します。
特に目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)の進言で芝居小屋を撤廃しようとした水野の方針に反対し、移転だけに済ませた逸話は有名です。この出来事をきっかけに、遠山の金さんが正義で、鳥居・水野が悪という構図の「遠山の金さん」ものが芝居小屋で上演されることが多くなりました。
しかし、1843年(天保14年)には鳥居の策略により北町奉行を罷免(ひめん)され、当時は閑職といわれていた大目付へと飛ばされます。その後、鳥居と水野が失脚し、1845年(弘化2年)には南町奉行として町奉行に復帰しています。1852年(嘉永5年)に南町奉行を退職し、旗本寄合席となりました。
遠山の金さんのように、北町奉行と南町奉行の両方を勤めた町奉行はめったにいませんので、彼の有能さや庶民に愛されていた人柄が想像できるでしょう。
遠山の金さんの仕事とは?
遠山の金さんが就いていた仕事は、3代将軍徳川家光のときに設置された「町奉行」といわれる役職です。幕府の役職の中でも非常に激務を強いられた仕事で、2割ほどが在職中に亡くなったほどです。
町奉行の主な業務には、武家・寺社を除く江戸御府内の町人が住むエリアを管轄し、司法・警察・消防・行政を担っていました。時代劇では刑事事件の裁判官のイメージが強いですが、実際は刑事も民事も担当する裁判官であるほか、警視庁の警視総監、東京消防庁の消防総監、商業の諸手続きを行う東京都知事を併せた職務権限を持っていたといえます。
では、遠山の金さんの1日を見てみましょう。朝にはまず、大量の書状の処理をします。机には、訴訟や請願の受付書類が常に積み重なった状態です。その後、午前中に江戸城へ登城し、老中部屋で報告や指示受けを行います。
そして午後になると、罪人のお裁きが開かれるのです。その上、月に3度開かれる評定所へ出席し、大名のお家騒動や直参旗本に関する案件も担当していました。机に積まれた書状の処理は、毎日夜中まで続きました。
町奉行所が北と南に分かれているのは新規の事件を月番で担当するためで、月番の奉行所は門が開いていて、門を閉ざした奉行所では継続案件の処理に専念する仕組みです。これほどの激務を毎日こなしている遠山の金さんの年収は、いったいどのくらいになるのでしょうか。
遠山の金さんの年収はいくら?
遠山の金さんの年収は、現代に換算して約3億1500万円という金額になります。旗本である遠山家は家禄が500石、町奉行の役高が3000石でした。遠山の金さんの部下としての与力や同心は100人以上いましたが、彼らの給与はすべて幕府が支払っているので、遠山家からの出費はありません。
その結果、江戸時代の年貢率である「四公六民」に当てはめての計算で、遠山の金さんの年収は、約1200石となるのです。これを現代の金額に換算すると、先ほどの3億1500万円となります。
しかし前章で紹介したように、遠山の金さんの仕事は非常に激務です。立場としても、これほどの年収になるのは当然なのかもしれません。
「遠山の金さん」という存在感
普通は2~3年で退職する人が多かったといわれる町奉行の役職を、北・南合わせて10年近く勤めた遠山の金さんは、庶民にとっても愛すべき特別な存在だったのかもしれません。
その人柄と、歴史にも残る大きな功績が、3億1500万円という年収を実現したのでしょう。このことを知った上で「遠山の金さん」を見ると、今までとは違ったドラマに見えてくるかもしれません。
出典
「江戸の家計簿」(2020年、著・磯田道史)
執筆者:FINANCIAL FIELD編集部