大都市で人気の住宅地 1世紀前に構想、鉄道会社が協力
配信日: 2019.11.02
震災前に生まれた田園都市構想
東京で山手線の西側に本格的な住宅地が造られたのは、関東大震災が契機とされています。東京の東側が震災で壊滅的な打撃を受けたことで、東側から西側への転居者が増え住宅建設が進みました。以前は東京郊外の別荘のあった地域です。
この宅地開発のルーツは震災以前から、渋沢栄一たちの「田園都市構想」としてありました。山手線に接続する鉄道を敷き、そこに整然とした街づくりを進めようとする画期的プランです。
東京郊外にこの構想が展開される以前に、関西では現在の阪急電鉄の創業者・小林一三が、鉄道・宅地造成・商業施設をセットにした開発を進めていました。日本の街づくりの先駆者といえます。阪急電鉄の沿線にあたる、現在の池田、豊中、宝塚、夙川、芦屋などの住宅地は、この開発構想で生まれた街です。
宝塚には劇場や遊園地などレジャー施設も建設され人気を集めました。この開発は東京より早く実現しています。渋沢栄一の田園都市構想も、この小林一三のアイデアに大きく触発され、示唆を受けています。
関東大震災後、丸の内などに本社を置く企業も、従業員が増加し通勤可能な住宅地が必要でした。そのニーズに沿って電鉄会社が宅地開発を推進し、都心への利便性を確保しました。同時に都心の大学を積極的に誘致し、通学生の足の役割を果たしました。
宅地開発と学校誘致が両輪に・東急電鉄
宅地開発と同時に学校誘致が、電鉄経営の安定に寄与していきます。その代表例が現在の東急電鉄です。まず田園調布から目黒、渋谷への路線を計画します。
渋沢栄一の息子・秀雄は、父の田園都市構想を東急電鉄と一体となり実現していきます。多摩川沿いの高台に、ロータリーを中心に街路を整備し宅地造成を進めます。これが現在の田園調布の街です。
田園調布だけでなく、大岡山、洗足といった近隣地域の宅地造成も同時に行います。特に震災後は強固な地盤であることも注目され、宅地販売は好調に推移しました。
東急電鉄の実質的な創業者・五島慶太は、宅地整備と同時に学校誘致を大胆に進めます。通勤客とは逆方向へ通う通学客の確保が最大の目的です。
土地を提供することで、横浜・日吉に慶應義塾を、等価交換で目黒・大岡山に東京高等工業学校(現在の東京工業大学)を誘致しました。とくに横浜郊外の殺風景だった日吉は、慶應義塾の誘致により知名度が上がり、大きく発展しました。
さらに東横線の途中駅だった柿の木坂と碑文谷にも、府立高等学校、青山師範学校を誘致しました。現在の首都大学東京(東京都立大学)、東京学芸大学の前身です。駅名も誘致した学校名に変更します。
戦後、2校は八王子と小金井に移転しますが、駅名は現在も、都立大学、学芸大学として残り、周辺は整備された閑静な住宅地となっています。
小田急電鉄と西武鉄道の宅地開発
小田急電鉄の沿線開発に貢献したのは、著名な教育者の小原国芳です。小原は手狭になった牛込にあった成城学校を、小田急電鉄の開通を見越して世田谷に移転させます。開通後、最寄り駅の駅名が成城学園前になります。
さらに自分の理想を実現するための町田に玉川学園を開校し、同時に玉川学園前の駅もつくります。小田急は小原のプランに合わせて、都心への通勤客向けの宅地造成をしました。
特に成城は、大岡昇平など著名な文化人にも好まれ、東京を代表する高級住宅地として発展します。その後も学校誘致を積極的に進め、専修大学、東海大学を神奈川県内の沿線に相次いで誘致します。
西武鉄道の宅地開発の原点は、創業者・堤康次郎の学園都市構想です。堤は鉄道事業よりも先に、箱根の別荘開発など不動産事業を展開していました。そのため西武鉄道沿線にこだわることなく宅地開発を進めます。東京での最初の事業は「目白文化村構想」を掲げて、現在の目白、下落合地区に住宅地が分譲されたことです。
その後、多摩地区の学園都市のプランを進めていきます。東京商科大学(現在の一橋大学)を国立に誘致し、大学と協力して街づくりを行います。中央線国立駅の開設にも尽力します。小平には津田英学塾(現在の津田塾大学)、東京商科大学の予科を誘致し、併せて宅地開発を行いました。
京王電鉄、東武鉄道、京急電鉄などの私鉄各社も、それぞれ宅地開発を進めます。鉄道会社は、鉄道開設と宅地開発だけでなく、商店街の育成、バス路線の整備、百貨店の開設、遊戯・娯楽施設の建設など、総合デベロッパーの機能を果たしていきました。
時間がたっても住みやすい住宅地に
こうして鉄道会社を中心に開発された街の多くは、現在でも閑静な住宅地として、人気を集めています。
高度成長期に造られたニュータウンが曲がり角を迎えつつあるのとは対照的に、大正末期から昭和初期に造成された戸建て中心のオールドタウンは、現在も良質で資産価値の高い住宅地として評価されています。鉄道会社が宅地造成から街づくりまで、大きく関与した例は、世界的にも例が少なく日本独特といえます。
高級住宅地の代名詞となっている田園調布や成城は、街の誕生から1世紀近くが経過しています。資産価値が高く相続税なども高額なため、代替わりによって1棟当たり宅地面積は縮小していますが、新たな転入者もおり、街が衰えている印象はありません。
都心まで1時間以内という立地に恵まれてはいますが、造成時に鉄道会社や農地組合を含めた開発業者が、区画整理、道路用地の確保などを整然と進め、ゆとりのある宅地造成を展開した結果が、1世紀を経た現在でも高い評価を受けていると思われます。
執筆者:黒木達也
経済ジャーナリスト